百濟王神社(特別史跡 百済寺跡)

  • かつてこの地に住んだ百済王氏、
  • その遺構となる百済寺跡は日本の歴史を知る上で重要な古代遺跡の一つです。
  • 7~9世紀にかけて隆盛を極めた百済王氏ですが、悠久の時を経た今、ここにはいません。
  • 寺は消失し、残ったのはただ礎石や仏像の破片、そして「百済王」という名でした。
  • 広い寺跡の西側に、かつての祭祀形態を一切伝えることなく、素朴な産土神の信仰として百濟王神社は祀られています。
  • 地元の氏子たちの心の拠り所として、村の鎮守として大事にされ、
  • 管理の行き届いた境内にはすがすがしい御神気が感じられます。
  • 百済王氏、そして現代の氏子たち、数多の人間像が時を越え交錯し、今尚その物語は続いています。
  • 古から現代、そして未来へと「百済王」の名がつなぐ壮大な歴史の流動を五感で感じてください。
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由緒

百濟王神社および特別史跡百済寺跡について

沿革

 当社は奈良時代(8世紀後半)百済王氏の祖霊を祀る祠廟として、東隣にその跡を残す百済寺とともに創建されたと考えられています。
 朝鮮半島の古代国家の一つ百済(くだら)は、斉明天皇6年(660)に唐・新羅の連合軍に滅ぼされました。その後、百済再興の戦が続きましたが、天智天皇2年(663)に白村江において敗れ、百済復興の夢は潰えました。資料によれば、その翌年には数千もの人々が我が国に逃れました。百濟國王第31代義慈王の子、善光(禅広)は当時日本にいましたが、百済を逃れて来朝した百済遺民らとともに朝廷に仕えました。朝廷は善光とその一族を重んじ、持統天皇7年(693)には「百済王(くだらのこにきし)」という氏族名を与えました。その後、聖武天皇の御代、東大寺大仏造立に際し、陸奥守であった百済王敬福(善光のひ孫)は大仏塗金のための黄金900両を献上し、天平21年(749)、敬福は従三位に叙せられ、宮内卿・河内守に任ぜられました。これを機に百済王氏一族は摂津国百済郡の居住地を離れ、ここ河内国交野郡中宮の地に住まいを移し、氏寺百済寺と神社(祠廟)を建立したと考えられています。
 百済王氏一族は桓武天皇・嵯峨天皇らの時代、天皇家の外戚ともなり、隆盛を誇りますが、9世紀後半からは勢力を失ってゆき、9世紀末には史書から姿が消えます。そのため、その後の百済王氏の動向は詳らかではありませんが、長くこの地で禁野司として命脈を保ち続けます。しかし、大永元年(1521)の百済王遠倫の叙爵を最後に記録から消え去ります。また、当時の記録として、天文24年(1555)、牧郷の一宮(現 片埜神社)の御神田帳に百済寺の記載があります。

 百済王氏の祠廟が百濟王神社となった経緯は詳らかではありませんが、資料上では、延宝7年(1679)の河内鑑名所記交野郡の項に「百済王の宮あり・・・伽藍の旧跡有」との記述があり、延宝9年(1681)の寺社改帳には「百濟國王牛頭天王相殿一社」と記され、さらに「廟の無年貢地を持ち、宮座4、人数114人」の具体的記述があります。また、享保18年(1733)日本興地通史河内誌に「百済廃寺は中宮村に在り。百済王祠廟の域内に礎石なお存す」とあり、享和元年(1801)の河内名所圖會(第六巻)に「百済王霊社、中宮村にあり、此所の産土神となす。ここに昔、百済寺というあり、今、廃して古礎存す」と記されています。これら資料から江戸時代前期からは旧中宮村の氏神となっていたと考えられます。
 対して百濟王神社の成立について氏子による見解としては、「百済王氏が衰退した後、この地は森林に覆われてしまったと思われる。古びた祠が痕跡を残し、ここにまつられていた”百済王”がこの地の土地神様の様相を示していくようになったのではないだろうか。現在の氏子の祖先が土地神様を奉ろうとした時、そこに祠があり、その場所でご加護を願い社を建てたのが、当社の創建であろう。」としています。
 現在の神社を形成する建造物、石造物はすべて江戸時代中期以後のものです。最も古いものは正徳3年(1713)の南端石造鳥居で、「百濟國王牛頭天王 廣前」の銘が彫られています。その他、手水舎石造水盤には享保5年(1720)、山車一基他には天保7年(1836)とあり、江戸時代後期の石造狛犬・多数の石灯籠も現存します。
 本殿については、高欄の凝宝珠銘に「文政十丁亥年 百濟國王牛頭天王 河州交野郡中宮村」とあること、正統な春日造りであること等によって、文政5年(1822)の春日大社の造替に際し、その一棟を下賜されたものと考えられています。保存状態は極めて良好で、建築当初の形式を伝える貴重な遺構です。
 次に拝殿について、旧拝殿の創建は現時点で明確な資料はなく不明ですが、最も古い修繕記録から天保7年(1836)には存し、昭和五十年の修繕事業に携った建築士によれば形式手法よりみて本殿脇の狛犬の建立と同時期、すなわち明和3年(1766)頃と考えられるようです。平成14年(2002)には建物自体を一新し、現在の拝殿が竣工しました。これに際し旧拝殿は現拝殿の南東側へ移され、現在もその姿を見る事が出来ます。
 当社の御祭神は百濟國王神と進雄命です。進雄命(牛頭天王)がいつ頃、いかなる経緯により合祀されたかは定かではありませんが、百濟國王神とともにその霊験はあらたかです。

参考資料

  1. 枚方市史編纂委員会(編)「枚方市史(第二巻)」、枚方市発行(1972)
  2. 枚方市教育委員会・(財)枚方市文化財研究調査会(編)「大阪府枚方市 特別史跡百済寺跡-本文編-」、枚方市教育委員会発行(2015)
  3. 枚方市史編纂委員会(編)「新版 郷土枚方の歴史」、枚方市教育委員会発行(2014)
  4. 山野満喜夫・瀬川芳則(編)「百濟王神社拝殿修復工事落成記念 百濟王神社と特別史跡百済寺跡」百濟王神社発行(1975)


鳥居の刻印を写した掛け軸

 鳥居の劣化に伴い、刻印を掛け軸に写したもの。「正徳三年」とある。現在、実際の鳥居から文字を読み取る事は困難となっている。

ご祭神

本殿

百濟國王(くだらこくおう)

 百濟國王について、「沿革」の項で記した通り、歴史を紐解けば渡来人としての性格が表立ちますが、当社の氏子地域では日本古来の産土神としての信仰が強く、当社の祭祀は伊勢神宮を本宗とし、天皇を仰ぎ、天神地祇八百万の神を信仰する神道に属します。
 そのご利益について、昨今、黄金九百両にまつわる史実より、商売繁盛、事業成功、家門繁栄、さらには武人としての百済王氏の一面が浮き彫りになるなか、必勝成就、旅行安全などのご利益が囁かれています。

牛頭天王(ごずてんのう) / 進雄命(すさのおのみこと)

 牛頭天王は京都の祇園を中心に展開する祇園信仰の主祭神であり、あらゆる災厄をつかさどる厄神たちの棟梁といわれ、この神を祀ることで、配下の厄神たちが災いを起こさぬようお取り計らい下さり、さらにその暴激なあらみたまのお力で魔を祓い病を退けて下さる神として信仰されてきました。
 荒々しい神であるがゆえ、同一神とされる進雄命と印象が重なります。
 当社では明治の神仏判然令により進雄命と祭神名を改められましたが、当社の鳥居、および拝殿の額には「牛頭天王」の文字が残されており、牛頭天王としての神格が根強く残されています。


摂末社

相殿社

天照皇大神 - 大神社より合祀
天児屋根命 - 春日神社より合祀
大山咋命 - 日吉神社より合祀
市杵島姫命 - 厳島神社より合祀
奥津比古命奥津比賣命火産霊命 - 竃神社より合祀
瘡神(くさかみ) - 瘡神社より合祀

 以上の神祇はかつての中宮村の各地に点在していたお社より合祀されました。
 特に瘡神さまについてですが、瘡神はかつて百濟王神社に侍者として仕えた者たちの霊であるといわれ、中宮領内には瘡神を祀る祠が点在しておりましたが、経年により徐々に失われてゆき、失われた祠に祀られていたおみたまが当社に合祀されたといわれています。
 近隣に現存する瘡神の祠としては堂山の山神宮(通称やくじんさん)、牧野の瘡神社などがあります。

稲荷神社

白鷹稲荷大神
高倉稲荷大神

 当神社のおいなりさんです。現在のお社は平成元年に造営されました。豊作の、ひいては商売繁盛、社業繁栄などのご利益は一般的に知られるところです。
 毎年春には稲荷祭が行われます。

若宮八幡神社

品陀和気命(ほむだわけのみこと)

 古事記によれば仲哀天皇の御代、神宮皇后が、新羅、百済を征伐した時身篭っていた御子が品陀和気命であり、後に応神天皇として即位したとされています。
 かつては中宮村西方寺境内の鎮守神とされていましたが、明治5年3月に合祀されました。

竜王山 浮島神社

高龗神(たかおかみのかみ)

 元は八大龍王社と称した記録があり、八大龍王を本尊として祀られておりましたが、明治の神仏判然令により、古事記に登場する神である高龗神を祭神として改められたと考えられます。高龗神は八大龍王と同様に雨乞いの神として祀られる事が多く、天候や土地の風水を司る神であり、田畑の豊作とそれに伴うあらゆる富と調和を司る神として信仰されます。
 元は池之宮の鎮守として祀られていましたが、明治時代に当社に合祀されました。
 毎年七月に浮島神社祭が執り行われます。

特別史跡 百済寺跡

 百濟王神社の境内には百済寺跡があります。これまでに幾度と無く発掘調査、整備が進められてきましたが、現在さらなる発掘と整備が進められており、近く史跡公園として完成された姿が見られる予定です。

『大坂城址』と並ぶ大阪の歴史文化遺産

 百済寺跡は昭和41年に史跡公園に整備され、また、大阪府下では大坂城址と百済寺跡の2件だけという国の特別史跡でもあります。いにしえより百済寺と呼ばれたこと、また、西隣に百濟王神社があることから、百済王氏一族の氏寺であると考えられます。百済王氏一族の交野移住の時期については諸説ありますが、天平勝宝2年(750年)における百済王敬福の宮内卿兼河内守任官を契機に、摂津国百済郡の故地を離れてここ交野郡の土地に移住し、氏神百濟王神社と氏寺百済寺を建立したというのが有力な説の一つです。
 寺域は約140メートル四方で、その伽藍配置は、前庭の左右に東塔・西塔を配し、中門から左右にのびた回廊が両塔を囲み、金堂に取り付いています。金堂の背後に講堂、その奥に食堂があり、この様式は薬師寺の伽藍配置に近く、平成17年から9年間に及ぶ枚方市の発掘調査では寺域の東北・東南・西北にそれぞれ築地等で区画された建物などの施設があったことが推定されます。新たな氏寺造営が規制された時期(8世紀後半)にあって伽藍計画から整備仕様までが別格的な扱いの寺院であったようです。 礎石は奈良時代の形式で、西大寺、秋篠寺と類似しています。出土品に関しては、全国でも出土例が少ない「大型多尊塼仏」が発掘されています。

協力:枚方市教育委員会文化財課


出土した塼仏

当時の伽藍配置図


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